Where there's a will, there's a way.
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どうして家出しなかったんだろう。
家出したくなるような多くの事情、それでも家出等ができない一つの理由。
あの頃、家出に限らず、もし自分のやりたいようにやっていたらどうなっていただろうか。
まず間違いなく親は離婚していただろう。
そうなったら、父親は一人だったら今頃生きてはいないだろうし、僕は金銭的な都合上おそらく地元の大学に行っていただろう。
地元なら同じ高校の友達がいて、その友達と弓道を続けていただろう。
バイトもやらないといろいろ厳しくなって、いろいろバイトもやることになっていただろう。
活動範囲は今より広かっただろうし、悩むことは少なかっただろうから精神的な面では今より楽になっていたのではないかと思う。
しかし、音楽との出会いはなかっただろう。
なにより、高校のときのように機械的なままだっただろう。
今はあの頃に比べればかなり感情的になった。
喜怒哀楽もちゃんとある・・・と思う。
それに、いろいろ思い悩むこともなかっただろうから膨大な読書もすることはなく、教科書外の知識や考え方は乏しいものになっていただろう。
感情的になっていたら自分は楽になる反面、多くのものを犠牲にすることになったのだろう。
今なら自分のやりたいことをやりつつ犠牲を出さないような方法も思いつくが、当時は考えつかなかった。
ただ「自分を犠牲にする」か「他人を犠牲にする」かのどっちかしか思いつかなかった。
あの頃の選択はベストではなかったけれど、ベターではあったと思う。
結果として維持された家庭がいいものかどうかは知らないけど、後悔していないところをみるとこれでよかったのだろう。
仕方がなかったのかなと思うと、いろいろ許せることもある。
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大丸でやってる「魯山人の宇宙」に行ってきました。
焼き物やら墨絵やら。
そして、ところどころに魯山人語録というものが書かれていたりして。
けっこうよかったです。
その後どういうわけか清水寺に行く気になったので行ってみました。
清水寺・・・自分の中では封印の地。
なぜ行く気になったのか不思議。
覚悟のようなものがあったのかな。
さぞや落ち込むだろうと思いきや、不思議なくらい晴れやかな気持ちだった。
三年ぐらい前の話を果たすことはできなかったにもかかわらず。
なんか悔いはないって感じ。
そのことに関してだけはできる限りのことはやったと言い切れる。
本当の意味で納得できたみたいだし、ようやく解放されたのかな。
たまに「ありのまま姿」というのがいいことのように言われるときがあるが、僕としてはそれはどうだろうと思う。
ありのままっていうのは、何も手を加えていない状態。
料理で言えば食材にあたる。
飲食店で調理されてない食材出されて「ありのままの味を味わってください」などといわれたらどうでしょうねぇ?
なんか手抜き感が漂ってしまいます。
人間だって何も手を加えなかったら、ありのままの姿なんてとても受け入れられるものではないと思う。
ただ怠けているだけ、逃げているだけにしか思えない。
しかし、悲しいかな努力すればいいというものでもない。
決して努力を否定するわけではないが、努力が必ず報われるというのは精神論でしかないと思う。
食材を適切に料理しなければ食材の状態よりまずくなることがあるように、人間だって自分にあった方向を選ばなければまずいことになるのではないだろうか。
何かをつくるとき、材料の特性を考えて製作を開始する。
それと同様に、自分の特性をよく把握した上で方向性を決めないと、ただ興味があるというだけでなんとなく始めてしまっては失敗してしまう。
人それぞれ特性が違うから、人と違った道を進んでもそれは当たり前。
同じ方がおかしい。
ただ流されているだけなら、多くの場合「不味い人生」のできあがりであろう。
関係ないことだけど、進行性骨化性線維異形成症(FOP)と色素性乾皮症(XP)の研究が始められたらしい。
FOPに関しては以前にテレビで見たことがある。
筋肉が骨に変わっていって動かなくなっていく病気だったと思う。
番組に出ていたのは中学生の女の子で、すでに身体の関節が半分くらいしか動かなくなっていて、動けば動くほど症状は進行してしまう状態だった。
その子は「みんなと一緒に普通の生活がしたい」ということを望みながら、不自由な身体にも関わらず学校には普通にいっていた。
番組を見ていたときは、政府の指定を受けていない病気であったため何の補助も受けられずにいた。
「無駄なところに税金使ってないでこういうところに使えよ」などと思っていたのをよく覚えている。
まだまだ難病はたくさんあるんだから、気合入れてやってもらいたい。
