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Where there's a will, there's a way.
            
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2ch用語とか若者言葉とか、新しいものでもいいものはいいのだが、言葉の世界に流行ができるのはどうかと思う。

言葉は生活するうえで必須のもの。
必須のものだからこそ確固たるものでないと困る。
その世界に流行が入ってくると不安定になってしまうのではないか。

どういうわけか「流行=いいイメージ」という不思議な図式ができているが、そもそも流行って一過性のもなんだし、あまりいいものではないと思う。
ただ、みんなと一緒という連帯感、最先端という自己満足感のためなのだろう。(「最先端=いいイメージ」という図式も不思議なのだが)

思考は言語とイメージの両方を使うわけだけど、その言語が不安定になると思考も不安定になるのではないだろうか。
口癖が思考に与える影響というのはよくあるけど、その人が使っている言語がその人の思考に与える影響は結構大きいのではないかな。
普段当たり前のように使っていて、あまりにも当たり前な存在だからこそ気づきにくいかもしれないが、それだけに怖いところもある。

かといって、堅苦しい言葉がいいのではなく、きれいな言葉というか整った言葉というか、全体的にまとまりのある言葉がいいと思う。
一部の人にしか理解できない言葉や政治家が使う当たり障りのない逃げ言葉を日常で使うことはあまりいいとは思えない。



経験上、言葉遣いと人間性は結構関係しているように感じられる。
言葉遣いが先か人間性が先か、それはよくわからないが相互関係がないわけでないだろうし、言葉からはじめてもいいと思う。

「言葉の乱れは心の乱れ」って、なんかで聞いたことがある気がする。




<追伸>

芸術作品が受け入れられるように、変わった言葉が人気をよぶこともある。
しかし、それを日常に持ち込むのはどうかと思う。
芸術作品だって部屋に飾っておいたり、美術館とかにあったり、日常世界から一歩はなれたところにあるからこそバランスが保たれていて価値があるのである。
それを日常に持ち込むのは滑稽でしかない。
2ch用語もそれ自体は別によいのだが、それを日常生活にもちこむのはどうかと思う。

言語圏というか、それぞれの言葉には領域があると思う。
いくら特定の言葉が得意であっても、つかいどころをわきまえないと。
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(何をつくるのだろうか?)



さて、学校裏サイトなるものがあるようで。

生徒同士の情報交換の場として役立つとともにいじめの場にもなっているとか。


ネットが普及している今は簡単に「裏」が作れてしまう。

昔はせいぜい校舎の影とか誰も行かない場所とかが「裏」だったのだろうけど、ネット上ならいくらでも「裏」はある。

匿名性も拍車をかけることになってるし。

自分は名乗らないくせに攻撃する相手を実名で書いてくるのは卑怯だよなぁ。


人間が人間である以上いじめは無くならんと思うし、「裏」も無くならんだろう。

でも、被害者を助けることはある程度はできるのではないかな。

たとえば、生徒だけでなく教師もそういう裏サイトを見て回るとか。

そうすれば、逆にネットを利用していじめの早期発見とかできるかもよ。

まあ、教師が見てるとわかったらすぐ別の場所に新しい裏サイトを作るだろう。

それをまた教師は追いかけて、とかでいたちごっこになるだろうけど、それぐらいの手間はおしまずやるべきでしょう。

教えるだけが教師の仕事じゃないと思う。というか、そうであってほしい。


というわけで、教師のみなさまはリアル世界だけでなくネット世界も見て回ってほしいです。

壇上から見た教室なんて仮の姿なのよ。

しかしてその実態は・・・ってね。







追伸

いじめに関しては、いじめられる側にも問題がある場合もあったりするからそう単純な話ではないのだけど、とりあえずここでは「学校裏サイト」について書いてみただけです。

あと、僕が教師なら裏サイトを見ても書き込みとかはせず、そんな裏サイトは知らないフリをしておきます。
何か問題があれば対処はしますが、その場合の情報も誰かから聞いたとかで裏サイトとは別のルートから得たということにしておけばいいし。
泳がしておいて様子を見る、というのはいい方法だと思いますよ。割と楽しいし。


(紫陽花。三室戸寺にて)


手書きの手紙で文通とかやったことある人ならわかるだろうが、一週間に一回や一ヶ月に一回ぐらいしかやりとりできない場合、一回一回よく考え趣向を凝らす。
一回送ってしまえばそう簡単に訂正もできないから何度も読み直すし、仕事や大事な用なら一回のやりとりで済むようにあらゆる可能性を想定して書く。

ところが、携帯なら手軽にどれだけでも連絡できるがゆえ、一回一回が非常に軽いものになりがちではないだろうか。
また、いつでも連絡できるということから、ぎりぎりまで連絡しないということもある。
「いつでも、どこでも可能」といったものに依存していたら、計画性がなくなったり想像力がなくなったりするのは自然なことなのかもしれない。

手書きの手紙は時間がかかる。
でも、そういった「間」があるからこそよいと思う。
「間」があるからこそ考えられるのである。
間髪いれずに返信がきて、それにすぐ返信しなければならないとしたら考えている暇もない。

スピードを上げれば効率的に見えるかもしれないが、考えるだけの「間」をなくすほどスピードを上げるのはただの暴走にしか思えない。


(アジサイコンサート)


自己教育能力があれば勝手に成長していく。
「技をぬすむ」というのがあるが、それが学習としては正しい姿だと思う。
そういう自主性が学習の上では大切ではないだろうか。
少なくとも、僕の経験では、人に言われてやったことより自分で進んでやったことのほうが実りが大きかった気がする。

自主性は試行錯誤を促す。
答えだけを求めて試行錯誤を省こうとすると、身にならないし意味もわからないから応用もできない。

自主性を発揮できるようにして、試行錯誤をさせて、行き詰ったりしたときにちょっとヒントを与えてあげる。
そんな教育が僕は好き。
いきなり方向を指図したり、答えを提示するようなのは怠慢だと思う。
スタートラインを決めるのは本人、進むのも本人である。
すべて決めてあげるのが教育だと思うのなら、思い上がりもいいところだろう。
その根底にある心理は支配欲と大差ないのではないかな。
まあ、それを「親切な指導」といって喜んでうける人が多いのにも問題があると思うけど。
そんな人は指導者から離れたときどうやって生きていくのだろう。

「技をぬすむ」というのを習慣にできるような教育があれば生涯教育なんて当たり前になると思う。


(一回生のとき行ったディズニーランドでのシンデレラ城。)


技術が進歩すれば、多くの人はその技術にすがるようになる。
それによって自分が本来もっている能力が低下する。
いわゆる技術の独り歩きというやつだ。


しかし、それがわかっていても企業は競争だからより便利なものを作っていく。
人間にとって本当にいいものかどうかなどは関係ない。
一方、消費者も自分にとって快適なものを選ぶ。
それが長い目でみて自分のためになるかどうかなどは考えない。


すると、ここに新しいビジネスが誕生する。

・車に乗るようになれば筋力や体力が低下する → フィットネスクラブ
・医療の発達で寿命が延びる → 保険や介護
・コンピュータの使いすぎによる視力低下 → 眼鏡、コンタクトレンズ、視力回復
・機械化が進み脳を使わなくなる → 脳力開発

どれも今では一般的なビジネスになってきている。


原因を取り除くことで改善しようとするのではなく、結果として低下したものを補おうとしてさらにお金やエネルギーを浪費していく。
技術ばかりが進歩して、技術の使い方がわかっていないのかもしれない。
進歩する技術に人間の方が振り回されているような感じがする。

情報に関しても、情報を編集して提供するっていうのがテレビや雑誌といったビジネスになってるけど、それによって利用者は自分で情報を探したりまとめたりする能力が低下してる気がする。
次は情報取り扱い能力開発とかいうビジネスもでてくるのかな?

一歩離れて見てみると、なんとも馬鹿げた流れだと思う。
タバコだけじゃなく、機械とかにも
「あなたの能力を損なう恐れがありますので使いすぎに注意しましょう。使用マナーを守りましょう。」
とかいう言葉をつけてみると面白いかもね。
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自分も周囲も転々としていく。
そんな中で偶然交わった流れの中から大切なものを見つけていくのが人生の喜びなのかな、とか思ったりして。

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