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Where there's a will, there's a way.
            
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消しゴムを見てふと思う。

「間違ったもの、汚いものは消しゴムで消して新たに書き直す。」

これって教育上よくないのではないだろうか?

 

間違っても消せばいい、後で直せばいい。

そんな考えを小さいときからもたせるのはどうなんだろ?

テレビゲームは何度でもリセットできるからヴァーチャルと現実の区別がつかなくなっている子供は現実でもリセットがきくものと勘違いしやすい、とかいう意見を聞いたことあるけど消しゴムだって同じことではないのかな。

訂正するときは二重線で訂正して、間違ったところはどこがどう間違えてどう訂正したのかがわかるようにするという習慣は小さいときからつけておく方がいいと思う。

 

大学の実験でもノートにメモや記録をとるが、消しゴムの使用は禁止されてる。

たとえ間違った記録でも、あとで考察するときに使えることもあるから、学習する上では間違った記録も必要なのだとか。

それに、他の人が見たとき、先人がどこで間違えたかがわかるということも大切な意味がある。

 

僕が万年筆を使うようになったのは別にこんなことを考えたわけではなく単に手が疲れにくいからという理由からだったが、シャーペンのときより確実に頭を使うようになった。

修正できないから一文字一文字に気を使うし、全体のレイアウトも考えながら書くことになる。

 

消しゴムは便利かもしれないが、その便利さが先のことをよく考えない行き当たりばったりの習慣を作る原因の一つになっているのではないか・・・というのは考えすぎか?

でも、人生に消しゴムはないよね。

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幸せになれるかどうかっていうのは、結局は幸せを感じられるかどうかってことなんじゃないかな。

 

どんなに多くのものを手に入れても、それを幸せと感じられなかったらその人は不幸だろう。

どんなに少ないものでも、それを幸せと感じられるのならその人は幸せだろう。

 

だから、幸せを手に入れようとするより、幸せを感じられるような見方を手に入れようとする方が結局は幸せになれると思う。

幸せを手に入れようと頑張っても、幸せは手に入れたらすぐ消えちゃうから、次々幸せを追い続けるような人生になってしまうんじゃないかな。そのために他人を犠牲にしたりすることもあるだろうし。

自分の外に幸せを求めるのではなく、自分の中から幸せを導けるような、そんな自分になれたらこの上なく平安だと思う。

それに、そういう人間にならないと自分のことでいっぱいいっぱいになって他人を幸せにできない気もする。

 

幸せって見ることも触れることもできないもの。

だからこそ、感じることが大切になってくると思う。

ようやくグラフができて一安心。

今回のプログラムを通じて微分方程式が嫌いになりましたよ。ホントに。

 

なにやら納豆ダイエットが騒ぎを起こしているようで。

まったく事情を知らなかった僕はスーパーに納豆がなくなってて非常に困ってたんですけど、これでようやく普通に戻りますかね。

それにしても、ダイエットになると思えばすぐ買いに行って、ダイエットにならないと思うと買わなくなるって・・・食事に対する基準がおかしい気がする。これじゃあ病気は減らないよ。

「ダイエットになると信じてたから嫌いな納豆でも食べてたのに」っていう人がいたけど、嫌いなものでも食べられるくらいなら運動しろよって思いませんか?

 

捏造に関しては事情をよく知らないけど、毎週一個新しい情報を出すとなるとスタッフはけっこうきつかったんじゃないですかね。あるあるの場合はいろいろ映像とかも作ってるし、そこまでやって肝心のデータが合わないと困るから捏造したとか?

実験とかで理論と実験が合わなかったときのあの気持ち・・・。まあ、わからんでもないけど。

でも、そうすると毎日やってる「おも○っきりテレビ」とかは大丈夫なんですかね。

あと、捏造と関係ないけど、ああいう番組って基本的にサンプル少ないですよね。十人程度では統計とは呼べないし、そもそも効果が出やすい人を選んでるんだろうし。

 

なんか、自分の食事なんだからもう少し自分で考えて食べるようにしましょうね、って思った。

メディアが力を持ちすぎなのか、消費者が自分を失いすぎなのか、結構大きな社会問題が露呈された事件じゃないかな。

っていう言葉が以前にありませんでしたっけ?

うちの地方だけかな?

 

いじめについて大人たちがいろいろ対策を練ってますね。

でも、いくら大人が対策考えても子供達自身が変わらないと無理でしょうね。

そうすると教育が大事って事になるんだけど、人権やら倫理やら道徳やら、そんなの子供にわかりますかね?

僕が小学校のとき、道徳の授業なんて休み時間みたいな感じでなにも身につかなかったんですけど。道徳とかはある程度年齢重ねないと無理だと思う。

そういうのは大人の世界であって、子供の世界からは離れてるからいじめ対策として使うには無理がある。

 

じゃあ、どうするかなんですけど、子供相手なんだからもっと感情や感覚にうったえるような教育がいいんじゃないですかね。

まあ、「自分もやられたら嫌でしょ。だからやめましょうね。」なんてのでは効果ないでしょうけど。「やられたら」っていう仮定法的な言い方では実感がもちにくいし、感覚にうったえるには弱いんじゃないかな。そもそも、「やられたら」とか考えられる子なら初めから問題になるような行動はしないだろうし。

それより、「かっこわるい」っていうのがいいと思うんだけど。

子供に限らないけど、問題起こす人って人生に対する美学っていうか、かっこよさっていうか、そういう意識が欠けてるんじゃないかな。

昔はもっとそういう美意識があったんじゃないのかな。そうでなければ切腹とかできんし。

 

別にかっこつけて生きろというわけじゃないけど、なんかそういう人間的美意識みたいな感覚を養うのは老若男女問わず大切だと思う。そうすれば大体の問題は解決するんじゃないかな。

僕は生まれたときから物に囲まれて生きてきた。

そのころはまだリサイクルとかより、大量消費の時代だったように思う。

新しく物をどんどん買っていくような、そんな社会だったような気がする。

 

でも、それっていい生活じゃないよね。

どんどん物が増えて、家の中はごちゃごちゃ。

なんか、お気に入りのものがあって、それを大事に手入れしたりして、少ないものを使いこなして生きるっていう、そんなのがいい生活なんじゃないのかな。

 

しばらく前にテレビでブランドバッグを大量にもっている人が出てたけど、ああいうのは感心しない。

「そのバッグのどれか一つでも思いいれのあるものある?」って、聞きたくなる。

ブランドものって、大体は丈夫にできてるから大事に使って親から子へ受け継いだりしていくが本来の姿らしい。次々買う日本の状態は変だよね。

道具を買うというより、ブランドを買うという感じだし。

 

で、よく生きるのに必要なことの一つに「物を大切にする」っていうのがあるんじゃないかと思った。

別に「買うな」というわけじゃなく、買ったら手入れをする。

日々の手入れをちゃんとすれば、多くのものは使い続けられるし、なにより愛着がわく。

そういう「物への愛着」って大事だと思う。

物質的に豊かだけど、精神的に貧しい日本。

もう少し「物への愛着」をもつようにすれば、流行に流されず、いいものを使い続けるような、そんな社会ができたり・・・しないかな?

何かを大切に使い続けるっていうのは、こだわりとか個性とか、なんか「個人」として大切なものにつながる気がするんだけど。

でもまあ、商品が売れるように、新しいものを買うように促すメディアが主流になっている状態では無理なんだろうけどね。

 

結局は個人の趣味の問題なんだろうけど、大量消費が精神的な豊かさにつながることはないと思う。

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自分も周囲も転々としていく。
そんな中で偶然交わった流れの中から大切なものを見つけていくのが人生の喜びなのかな、とか思ったりして。

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